聞いたことのない鈍い音、雪の中へ
寒い冬の日だった。昨日は、お母さんが風邪をひいて床に伏せっていた。
まじこが 20 時に 2 階へ上がってしばらくしてから、いつもの「日課」が始まってしまった。
突然、今まで聞いたことのないようなものすごい音が響いた。
ガチャーンともガタン、ドスンという音でもない。
重いものが思いっきり倒れるような、鈍くて嫌な音。
まじこは想像もつかない音の恐怖に、しばらく身動きが取れんかった。
そのうちに聞こえてきたのは、お母さんのいつもより大きな叫び声。
まじこは意を決して、音が立たないように足音を忍ばせ、ゆっくりと階段を下りた。
そして、ドアの隙間から居間を覗き込んだ。
その光景を見た瞬間、まじこの頭に浮かんだのはただ一つ。
「おまわりさん、呼ばなあかん!」
それだけだった。
まじこはその現場に声もかけず、そのままそーっと、靴も履かずに外へ出た。
そのころ、まだ我が家には電話がなかった。だから、お向かいの材木屋さんまで行って電話
を借りなくてはならない。
靴を履く音や、ドアを開ける音、まじこの足音。
その小さな物音のせいで、お父さんがもっとヒートアップしたらどうしよう……。
それよりも、今の状態をすぐにおまわりさんに確かめてもらいたい。
まじこの小さな頭の中で、いろんな思いや考えがグルグルとめぐった。
気づけばまじこは靴も履かずに雪の中を飛び出していた。
ドンドンドン、叩き続けた玄関の扉
ドンドンドン、ドンドンドン。
何回も何回も、無我夢中で材木屋さんの玄関を叩く。
「お願いします!お願いします!」
やっと、部屋の明かりがついた。
明かりが灯るまで、ものすごく長い時間のような気がした。
材木屋さんの長男が階段を下りてくる。
まじこはとっさに、「お父さんとお母さんが喧嘩してて、おまわりさん呼ばなあかん……!
電話貸してください!」と叫んだ。
まじこのそんな様子を聞きつけてか、おばさんも 2 階から下りてきた。
おばさんは何も言わず部屋の電気をつけ、電話の前に座り、受話器をまじこに渡した。
受話器から流れる「110」の声
「1・1・0」
「事件ですか?事故ですか?」
そう聞かれたところまでは、今でもはっきりと覚えている。
そこに返答する間もなく、まじこは言葉をまくしたてた。
「お父さんとお母さんが喧嘩していて、お父さんがお母さんの首絞めているから早く来て
ください!ピーポーピーポー鳴らさないでください!」
息継ぎもせず、一気にそう伝えた。多分、泣きながら伝えていたのだと思う。
受話器の向こうからは「家の住所は?」「姉ちゃんの名前は?」と矢継ぎ早に聞かれたけれ
ど、当時のまじこの気持ちは、ただ一つだけだった。
「早く、早く。そんなんええから、とにかく早く来て……」
心の中で、ずっとそう願っていた。
そのころ、材木屋さんの家族とは少し距離ができていた。
だからだろうか、その時のおばさんも「あら大変!まじこちゃんここに居なさい、おばさん
が見に行ってあげるから」とは言わなかった。
大人たちの騒動の渦中で、おばさんがなんとなく冷たい目をまじこに向けていたことは、今
でも鮮明に目に焼きついている。
当時のまじこには、「お母さんを助けてほしい」とか「かわいそう」という健気な感覚はあ
まりなかった。
それよりも、 「お願いだから、お父さんを逮捕してほしい」「もう、こんな状態を終わりにさ
せてほしい」という思いの方が、はるかに強かったんやと思う。
雪の中の待ちぼうけと、大人のルール
まじこはまた、靴も履かずに雪道の中を家に戻り、玄関の前で「おまわりさん、早く、早く
来て……」と願いながら待っていた。
ようやく到着したお巡りさんは、規律が厳しいのか、着いてもドカドカと家に上がってくる
ことはなかった。玄関先から大声で警察署の名前を言い、まじこに引っ張られるようにして、
ようやく家の中へ入ってくれた。
「ご近所から通報があり……」というようなことを言ってくれていた気がする。
まじこはその場で、お父さんを本当に警察に連れて行ってほしかった。
でも、今だからわかる。
当時、夫婦喧嘩は民事不介入。
「犬も食わない」というより、介入してはいけないというルールだったから。
おまわりさんが来たことで、喧嘩は一旦は静まった。
だけど、まじこの本心は「えっ?それで終わり?」と思っていた。
「お父さん、連れて行かへんの……?」おまわりさん。
静まり返ったリビング
二人のお巡りさんと一緒にリビングを覗いたとき、ようやく部屋の惨状が目に入った。
さっきまで、お父さんがお母さんを倒し、馬乗りになって首を絞めていた場所。
その近くには、ストーブに石炭や薪をくべるときに使うデレッキ、酒の瓶、倒れた椅子、床
に割れた食器、そして散らばっている薪や石炭……。
お巡りさんたちが帰った後、お母さんはそれらを何も言わず、静かに片付けていた。
まじこはその後、2 階に上がってからも気が気でなくて、ずっと床に耳をつけて下の階の音
を探していた。
雪の中を裸足で歩いたはずなのに、そのときのまじこは、足が冷たいなんて 1mm も感じて
へんかった。
🌟まじこからコメント🌟
子供が警察を呼ぶ状況ってよほどの事。当時より大人になったまじこはそうすごく思う。
警察に通報するのも思い切ったわけでも勇気を振り絞ったわけでもなく、とっさの行動だった。
音をたてないようにしたのも、靴を履かずに外に出たのも。
まじこのお母さんはそのことについて後にも先にも一度たりとも口に出さなかった。
でもまじこの行動についてありがとうとかごめんねの一言があったらまじこの気持ちも少し変わっていたかもしれないし、お母さんを助けてよかったと思ったかもしれない。お父さんをなんでお巡りさん連れて行かへんの?だけで終わった感情がまじこ自身消化しきれていなかった感情だったきがする。
親だろうと兄弟だろうと上司だろうが先輩だろうが「ごめんね」「ありがとう」は認めるサインなんやから。そう思うで。



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