それはある日突然始まったことではなく、大学生のお兄さん達が下宿人として暮らしている
頃から、少しずつ起きていたんよ。
お父さんはお酒が好きで、晩酌には必ずお酒を飲んでいた。
その頃のサラリーマンは、仕事が終わると付き合いでお酒を飲んで帰宅する、というのが当
たり前の時代やった。
お父さんは外で飲んで帰ってくる日以外、さすがに平日は深酒もしなかったし、お父さんの
目つきが変わることも、お母さんの金切り声が聞こえることもなかった。
だけど、お父さんは休みの前になると、必ずまじこにお使いを頼むんや。
決まって頼まれるのは、「焼酎 1 本と、しんせい(SHINSEI)のたばこ 2 箱」。
頼まれるたびに、「あぁ、今日は飲むんか……」と重い気持ちになりながら、お使いに行か
なければならなかった。
本当は、このお使いをしてお酒を買って帰れば、夜には間違いなく騒動が起こる。
だからまじこは、このお使いが本当に大嫌いやった。
普段のお父さんは、お酒を飲みすぎさえしなければ、台所に立っておいしい料理を作ってく
れるような優しい人やった。
それなのに、明日は休みという日には、ついつい深酒になってしまうんよ。
当時は「半ドン(土曜日の半日勤務)」があって、まさにその日は帰宅すると、お父さんは
午後からずーっとお酒を飲んでいた。
同じ年くらいの友達は「今日は父さんが半ドンや!」と喜んでいたのに、まじこは夜に起こ
りうる騒動を想像すると、嫌で嫌で仕方がなかった。
お父さんが深酒をすると、だんだん目つきが据わり、顔つきが変わってくる。
だからまじこは、そういう日はお父さんの顔の変化をもの凄く気にしていた。
原因は何なのかわからないが、お母さんとちょっとしたことで口論が始まってしまうんよ。
お母さんも反論せずに、右から左へ聞き流せばいいものを、いちいち反論してしまう。
そりゃあ、あの「ママゴン」やから黙っていられるわけがない。
そうして、喧嘩はどんどんエスカレートしていくのがお決まりの流れやった。
「上に行きなさい」の意味
その怒鳴り声は、2階の下宿さんにも丸聞こえの大きさやったんよ。
そんな時、お母さんはまじこに「上に行きなさい」って言うんや。
「上に行きなさい」というのは、下宿のお兄さんの部屋へ行きなさい、という意味やっ
た。
下宿のお兄さんは毎度のことやったから、「またか」という感じでまじこを受け入れては
くれた。
最初の頃は、お兄さん達も喧嘩が始まると、わざとお風呂に入りに下へ降りたり、用事も
ないのに下の様子を見に行ってくれたりしていた。
それでお父さんととお母さんの喧嘩が少し収まることもあったんよ。
でも、だんだんとお兄さん達も半分は呆れ、半分は「触らぬ神に祟りなし」状態になって
いった。
喧嘩が収まらないときは、まじこはお兄さんたちの部屋にお泊まりさせてもらうこともあ
った。
お父さんは、お母さんに手を挙げる人やった。
たぶん、子供のまじこにそれを見せたくないから、母は「上に行きなさい」と言っていた
んだと思う。
半ドンの次の日は、日曜日で会社は休み。
まじこの長い長い「我慢大会」が始まる。
お母さんがお父さんから暴力を受けていたことは、次の日の朝になれば子供の目にもすぐ
にわかった。
まじこはいつも夕方になると、
「今日はお父さん、お酒飲んで帰ってこなきゃいいな」
「今日はお酒飲むのかなぁ」
「お父さんが何か言っても、お母さん何も言い返さなきゃいいのに」
そんなことばかりをぐるぐると考えてしまう子供になっていたんや。



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